2016年5月9日月曜日

西浦賀の燈明堂、千代ヶ崎、首切り場に行ってきた


西浦賀にある燈明堂、その昔この付近は砲台が設置された東京湾要塞として、
また江戸時代には浦賀奉行所の処刑場として利用されていたそうです。

浦賀奉行 
享保5年(1720)~慶応4年(1868)

参照:https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2490/uraga_walk/nisi12.html

東京湾要塞跡(千代ヶ崎砲台跡)
明治25年(1892年)に起工、日清戦争中の明治28年(1895年)に竣工した
東京湾要塞に属する沿岸砲台で、28センチ榴弾砲3砲座6門が備砲された榴弾砲砲台と
15センチ臼砲4門、機関砲4門などが備砲された近接防御砲台から構成されている。

参照:https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/bunkazai10.html


赤い丸が燈明堂の場所




対岸に見える鋸山(のこぎりやま)

千葉県安房郡鋸南町と富津市の境に位置する「鋸山(のこぎりやま)」

鋸山ハイキングまとめ【登山マップ】見どころ・難易度・所要時間・行き方・アクセス・食事・お風呂|千葉県 
http://wryoku.com/howto-hiking-nokogiriyama-chiba/



千代ヶ崎砲台跡のふもとの海岸に転がっていたレンガの塊。

砲台跡から崩落したものかもしれませんね。


下記のリンクで砲台跡の画像や動画が見れます。

一般公開されていない「史跡東京湾要塞・千代ヶ崎砲台跡」を委員会視察しました/動画でご紹介します
http://www.hide-fujino.com/blog/2015/06/16/35686

[戦跡]千代ヶ崎砲台跡周辺探索「2009-05-05」
http://teeart.blog107.fc2.com/blog-entry-58.html


燈明堂とその周辺
慶安元年(1648)幕府の命でつくられた
日本式の灯台である燈明堂は明治5年(1872)まで
その役割を果たしました。

燈明堂の背後の山には平根山台場がつくられ
外国船に備えました。平根山台場は天保8年(1837)
日本人漂流民を送り届けに来航した米商船モリソン号を
最初に砲撃した台場として知られています。

ここから海岸線沿いに突き出た所には幕末期に、
千代ヶ崎台場がつくられました。

燈明堂付近には供養碑などが立ち並び、
かつてここが首切場と呼ばれた浦賀奉行所の
処刑場だったことが偲ばれます。



なんて書いているのだろうか。
元御墓場かな?元御基場かな?

遠見は分かるんだけどな~。

【遠見番所】
1 遠見の番人の詰め所。
2 江戸幕府が沿岸各地に設けた、外国船を見張るための番所。



2013年に撮影した際の動画です。
暗くなってきて奥まで行けませんでした。


千代岬瘞骨志碑
浦賀奉行浅野中務少輔長祚(ながよし)が嘉永二(1849)年2月に建立した碑です。
千代岬台場建設中に出土した人骨を供養したものといわれています。

下記リンク(pdf)で詳しく記載されています。
とてもわかり易い記事です。

浦賀文化第20号:平成21年(2009年)10月1日
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2490/uragabunka/documents/uragabunka20.pdf


地蔵尊像

天保11(1840)年10月建立

丸彫、像高さ71㎝、基壇高さ142㎝

基壇前面:「種種重罪三逆消滅 自他平等即身成佛」

(観音経秘鍵偈・観音経の秘密の奥義、経などの中に韻文の形で仏の徳を賛嘆し教理を述べたもの)


名号碑(題目供養塔)

天保11年(1840)建立

角柱、高さ台座を含め約4m

前面:「南無妙法蓮華経」

右側面:「一切業障海」「皆従妄想生」

左側面:「衆罪如霜露」「恵日能削除」
(海のように広がっている悟りの邪魔になるすべての悪行は、皆正しくない考えから生まれる。
多くの罪は霜や露のようなものであり、あたかも太陽の光が万物を均等に照らし、
霜や露を消し去るように、仏の知恵はすべてにわたって、広く一切の生物の上に行きわたり、
その生物が犯した全ての罪を消滅する。)

裏面:「干辰天保十一歳次庚子七月中浣八鳥」

願主
東耀山日鳴(花押)法界平等・・・松崎屋與兵衛

台座前面:「海上安全」

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